カテゴリー別アーカイブ: 木鶏クラブハウス

木鶏クラブハウス(2022/3/17):「朝チア」で日本の朝を元気にしている女性の話

 

人間学を学ぶ月刊誌「致知」2022年3月号 インタビュー「第一線で活躍する女性」より

 

応援の力で日本中に元気と幸せの連鎖をつくる!

両親の応援が人生の原点に

ー朝妻さんは、早朝の駅前でチアリーディングを行い、通勤途中の人達に元気を与える「朝チア」の活動や、「応援学」の普及に取り組んでいるそうですね。

朝妻

今はフリーアナウンサーとしての活動、もう一つは2018年に立ち上げた全日本応援協会の代表として「朝チア」をやりながら応援学、応援文化を広げていく活動です。応援学とは人を励まし応援することで得られる様々な効果を脳科学や心理学などを通して科学的に紐解き、体系化したものです。人間は誰かを応援することで、脳から幸せを感じるオキシトシンというホルモンが出て、相手の方だけでなく自分自身も明るく前向き、元気になれるんですよ。

朝チアについては今は9人のメンバーで主に新宿や新橋の駅前で行っています。

応援学の普及に至るまでの歩み

私は1983年北海道の名寄市で生まれました。

ただ幼稚園の頃 父の転勤に伴い新しい園に引っ越してからいじめに遭いました。それを我慢して先生に言えないもどかしさ、寂しさや孤独を味わった事で以後、小学校や中学校では仲間外れにされている子がいたら放っておけない性格になりました。これが人に寄り添いたい、応援したいという原点になったような気がします。もう一つ大きかったのは両親の存在です。一生懸命私を応援してくれました。

それから東京の大学に進学して、チアリーディングの人達の姿、表情がとても輝いていて、ものすごく勇気と元気をもらい、自分もやりたいと思いました。

充実した日々から人生の逆転へ

朝妻

就活でアナウンサーの会社に70社受けましたが、全て落ちました。

「何をやっても無理だ」と塞ぎ込むようになったんです。

心が変われば人生も変わる

その人生の逆境をどのように乗り越えていかれたのですか?

朝妻

ある日、マイナス発言ばかりしている私を心配した友人から「いったい何がやりたいの?」って聞かれたいんですね。その時に浮かんだのが、青春を賭けて打ち込んだチアリーディングだったんです。前向きに頑張っていた頃の自分に戻りたいという思いもあったのでしょう、友人に「もう一度チアをやりたい」と伝えたら「チアといえば、新宿駅で出勤途中の人を一人で勝手に応援して、いまネットニュースで話題になっているチアリーダーがいるよ」と

友人のひと言がきっかけとなり、新宿駅まで見に行くことになったんですけど、その人(齊藤彩さん)が一人で踊り始めたんです。その姿を見てもう全身に鳥肌が立ちました。もう「これだ-」と思って朝チアのメンバーに加えていただきました。

当時はたった二人で毎朝踊っていましたから、まさに修行でした。でも毎朝出来るかどうか心配する私に、齊藤さんは「久美ちゃん。出来ない理由じゃなくて、出来る方法を考えるんだよ。」って教えてくれたんです。

そこから何事もポジティブに考えられるようになって、「ああ、今日も朝チアができた」というように自分を取り戻していきました。

ある日50代くらいの女性の方が「あなたたちの姿を見て、(リストラされた)私にも何か出来るかもしれないわ」と言って去っていかれて、その数日後、朝チアの近くで靴磨きをやられていました。

自分にも誰かの背中が押せたとすごく嬉しかったですし、この体験から誰かの力になりたい、通り過ぎる100人のうちのたった一人でも朝チアで1日頑張る力を持っていただけたらいいなって、心のベクトルが変わるとなぜか落ち続けたアナウンサーの採用にも受かるようになり、さらに朝チアを始めて4年が経った頃に、チアリーディングを扱う番組のキャスターのオファーが来たんです。

応援の力で幸せの連鎖を

朝妻

多くの方が「応援」と聞くと「される側」になりたいって思いますよね。でも実は応援している側の方がオキシトシンというホルモンがでて元気になれるんですよ。

日々のちょっとした挨拶でも明るく笑顔で行う事で相手を元気にし、それが自分にも返ってくることで前向き、幸せに生きていけるようになる。そして相手が目の前で笑顔になったり、頑張っている姿を見たりする事で自分自身が励まされ、元気になれるんです。

そんな「応援の連鎖」を通じて「幸せの連鎖」をつくり、日本中を明るく元気にしていきたい。そしてゆくゆくは応援学を子供達の学校教育に取り入れて行きたいです。

 


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応援する人がオキシトシンのホルモンがでて元気になれるという事。

今回YouTubeで松岡修造さんがこの朝チアを取材した動画を見ました。それで実際に「朝チア」で通勤途中の人への応援している姿を見ました。こんなに人を応援したこともないし、されたこともないと思いました。まだ自分にも出来る事があることを知りました。

Youtubeはこちらから見れます→

 

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  木鶏クラブハウス:毎週木曜日夜8時~

  人間学を学ぶ月刊誌「致知」から心に残った記事を紹介させていただいています。

 ・お気軽に遊びに来ていただけると嬉しいです。

 

❤今日も最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

 

今回ご紹介した記事は 人間学を学ぶ月刊誌「致知」からお届けしました。

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木鶏クラブハウス:津波に負けなかった伝統のレシピ(ヤマ二醤油)

致知(2022年3月号) 致知随想より   新沼茂幸(ヤマニ醤油4代目)

「一寸千貫」(いっすん せんがん)

11年前の3月11日 岩手県陸前高田市で先祖代々続くヤマニ醤油の4代目として31年目を迎えた新沼氏は東日本大震災に襲われました。

間一髪津波から逃げれたものの 振り返ると見慣れた町の姿はもうなく、頑丈と思っていた醤油蔵が呆気なく押し流されていくのが見えたそうです。

新沼氏:

危険を顧みず一人会社跡に向かったのは。醤油屋を続ける気があるのか、己の本心を問うためです。ブロックで建てた事務所がかろうじて形をとどめており、余震が続く中慎重に室内に入り込みました。

無残な光景でしたが、ケースで保管していた先祖伝来の醤油のレシピが濡れずに残っていたのです。ああ、よかった!自分の魂の声が聞こえた瞬間でした。

創業以来、ヤマニ醤油は商品を問屋などには一切卸さず「御用聞き」を貫いてきました。ところが1980年赤字が1千万円と倒産寸前、コンサルタントからは「御用聞きはやめましょう」と進言されるありさまでした。

そんな折り、相田みつおさんのひとつの言葉に出会いました。

「一寸千貫」 一寸角(3㎝)の細い柱でも、真っすぐならば千貫(4トン)の重みにも耐えられる。元々は大工さんの言葉で、つまり生きる姿勢が真っ直ぐならば、どんな重みにも耐えられると、思えば、家業を継ごうと決めた理由は自分を育ててくれた家族と地域の味を一守りたいという使命感でした。だから何があっても実直にこの初心を貫こう。そう決めたのです。

そして、社員8名、年商1億2千万円の会社にする事ができました。

そこに襲ったのが東日本大震災です。押し流される町を見て、どれほど頑強でも形あるものは滅びる。一番強いのは目に見えないものだと気づいたのです。

その後新沼社長は「第二創業」に向けて始動したそうです。

新沼氏:

家族や地域の味を守るという初心を忘れず、企業文化として「御用聞き」を前例のない企業体に残せたことが奇跡の復活に繋がったと思います。

事業の形は変わっても「一寸千貫」生きる姿勢さえぶれなければ乗り越えていける。

これからも変わらずヤマニらしさを追求し、後生に遺していく覚悟です。

 


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 先祖代々続く 醤油のレシピが 東北大震災の中で残っていた奇跡に「ヤマニ醤油」を創業されたご先祖様の後生に繋いでいって欲しいという遺志を感じました。

そしてそれを心で感じ 自分の出来る最善を尽くして「ヤマニ醤油」の味を受け継いでいこうとする4代目社長の心意気。相田みつおさんの「一寸千貫」の一言に心を支えられて真っ直ぐに「御用聞き」に徹して味を守ろうとした社長の気持ちに胸を打たれました。

明日が11年前に東日本大震災のあった日という事もあり、この記事を取り上げさせていただきました。


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木鶏クラブハウス:はやぶさ2を支えた500本のネジ

人間学を学ぶ月刊誌「致知」2021年4月号 致知随想より

 

「人」が活きる ものづくり

  キットセイコー社長:田邊弘栄

今回の木鶏クラブハウス(2022/2/24)では 2020年12月6日地球に帰還した、小惑星リュウグウの砂を採取した探査機「はやぶさ2」の機体に搭載されている 100種類 500本のネジを設計・製造した会社のお話を紹介しました。

 

田邊社長

“打ち上げから6年 50億キロに及ぶミッションは99%成功すると信じてはいたものの、最後の最後まで不安は拭えませんでした。それだけにカプセル内に砂が多く入っていた、生命誕生の起源に迫れると続報を聴く度、よい事業に関われたなという実感が強くなり、今後の研究に夢を膨らませています。

当社は1940年埼玉県羽生市で祖父が創業した田辺製作所を前進としています。

その頃は時代の要請もあり家電類に加え無線や軍用機の精密ねじを製造しながら腕のいい職人さんを多く育てていました。

宇宙事業に初めて携わったのは50年前です。

日本初の人工衛星「おおすみ」の開発に当たり宇宙開発事業団(現JAXA)から当社と取引のあった日本電気(NEC)を通じて話がありました。

なぜ一介の町工場に白羽の矢が立ったか。

それは祖父が定めた経営方針が大きいでしょう。

その当時技術力を見込まれ ソニーや日立、松下電器といった名門から「うちの量産工場になってほしい」と打診されていました。

ところが祖父はそれを辞します。

手間がかかる少量注文でも製作を根気よく支えてくれる「面倒見のよい会社」と多く仕事をした方が生き残れるとの判断でした。

結果、徐々に量産から少量多品種へと体制を移し前例がなく特殊な「宇宙ネジ」の受注に至ったのです。

そして当社の職人と先方の担当者が連携し試行錯誤した結果チタン合金製「六角穴付きボルト」などの原型となる宇宙事業用ねじの規格が完成。

以来 二十数人の従業員で約80基の人工衛星に納品してきました。

そんな中、大学卒業後アルバイトで家業に入った私は愕然としました。

職人の大半は50代後半で、定年が間近に迫っていたのです。

後を継ぐ若い職人は皆無でした。このままでは3年もすれば職人がいなくなる。技術が消えればうちはきっと潰れてしまう。

ネジ製造はまさに職人仕事で先輩の勘を定式化するだけでひと苦労でしたが、

平社員ながら若い人の採用にも率先して取り組みました。

「自分にはもう時間がない」この頃の私はその一念で働いていたように思います。

職人として1人前になるには会社で多くの経験を積んでもらう必要があり、普通は10年20年とかかります。

そこでできる限り無駄なくベテランの技量を若手に継承する為に考え出したのが「マイスター制度」でした。

定年を迎えた職人が退職すれば、その人の数十年分の蓄積が失われます。また嘱託に待遇を落とせば本人のやる気はもちろん、教わる若手に尊敬の念が生まれません。

それがどうしても嫌だった私は、主に当社で定年した職人をすべて本人の希望通りの時間で働く「マイスター」(名人)として迎えたのです。

定年後も安心して働ける会社にし、現役の職人に長くいてもらう目的もありました。

若手がぶつかる問題は大抵先輩が昔経験しており、それを共有しない手はありません。

あえてマイスターが出社しない日を設け、若手の自立を促した結果、活発に教えを請いまた教えてあげるという長期的な継承の形が出来ました。

これを踏まえ、当社は他者のような機械化はあえてせず、工程の約3分の2を職人の手が通るようにいています。このため微妙な加工が要る、他者の嫌がる仕事を受注でき、職人技、人が活きてくるのです。

加工が難しい原子力プラントや鉄道路線、F1カーの特殊ネジを製造できる所以です。

「はやぶさ2」を平均30代の社員一丸で成功できたのは嬉しい事でした。

宇宙事業では以前と同じ衛星をつくることはなく、常にチャレンジが求められます。職人仕事にはまだ暗いイメージがありますが、自社の取り組みを通じ、人が活き活きする、明るいものものつくりを実現したい。それが私の願いです。”

 


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人生の「マイスター制度」・・

今回の致知随想から「はやぶさ2」の偉業はこのような職人技の特殊なネジのおかげでなされていた。ということを知り、感動した。

そして熟練した職人さんの技を如何にして次の世代に伝承して行くかの 「マイスター制度」がとても いい取り組みだと思った。

と同時に、これは社会全体にシニア層にいる方に対する人生の達人という尊敬の念を持つこと、そしてシニアの方も若い人に英知を伝える気概を持って生きて行くことの大切さにも繋がるのではないかと思った。

まさに 「人生のマイスター制度」・・・

 

 


❤今日も最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

 

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世界の山ちゃんを引き継いだのは「てばさ記」奥様だった

 

 

 

 

 

木鶏クラブハウス(2022/2/10)は致知(2022年2月号)より

「第一線で活躍する女性」で登場されたエスワイフード代表の山本久美さん

「主人が遺したものを引き継ぎ伝承する」 の記事を紹介しました。

 

山本さんはコショウ辛い手羽先で有名な名古屋発「世界の山ちゃん」(全国に60店舗 展開)を創業されたご主人が2016年に突然59歳の若さで亡くなった後 会社を継がれたそうです。

亡くなった時は3人の子供さん(一番下が小学校1年生)を抱えた専業主婦だった山本さんが如何にして代表になったか。そのマインドと素敵なストーリーに私の目は釘付けになりました。

インタビューの内容をご紹介します。

企業理念は「立派な変人たれ」

山本:

この「立派な変人たれ」という理念は主人がよく口にしていた言葉で「立派な人間になる」「明るく元気にちょっと変」ということ。

「立派な人間になる」とは人として立派になろうと努力すること自体が大事だとよく言っていました。

「明るく元気にちょっと変」には「ユニークで面白い」だけでなく「変化をする」という意味も含まれます。

主人も真面目で変な人でした。店舗が非常に忙しい多忙で社員同士がギスギスしていた時に行われた会議では7色のアフロの被り物をして大真面目に出席したと聞いています。

会社を継ぐ覚悟が決まった時

山本:

結婚してから専業主婦で3人子育てをしていましたが、2016年8月21日に突然 主人が大動脈解離で亡くなりました。

後継者の事で悩んでいる私の思いが定まったのは「てばさ記」という店舗通信がきっかけでした。

私は仕事にはほとんど関わっていませんでしたが結婚後に主人から、料理を待つお客様の気が紛れるように、店舗に貼り出す瓦版通信を作ってほしいと依頼されて、以後毎月1回「てばさ記」を休まず発行し続けていたんです。

葬儀などでバタバタしている間に次号の「てばさ記」の締め切りが近づいてきた時、心配して社員から「今回はお休みしませんか?」と言われて「私への配慮なら入りません」と返事をしました。その瞬間、主人への思いだけでなく、会社やお客様に対する熱い思いが自分の中にもあることに気付かされたのです。それで代表に就任する決意が固まりました。

トップダウンからボトムアップの組織へ

山本:

主人は人をとても大切にする優しい人でした。

汚い所の掃除など非田尾が嫌がる仕事を率先してやっていましたし、給料明細書も毎月必ず東京と名古屋に分かれている150名以上の全社員に手渡ししていました。この2つは私にも出来る事なので、代表になって以降実践しています。

一般企業に初めてしかもトップとして入った私は分からないことだらけだったので、分からないことは分からないと素直にさらけ出し、幹部だけでなく、一般社員の皆にも本当によく助けてもらいました。

社員達もそれまでのトップダウンの体制ではなく一人ひとりが「自分たちがやらねば」という自覚をもって行動してくれるようになりました。

会社や「山ちゃん」ブランドに対する愛情を持った社員が非常に多くて、社員一人ひとりの中に「主人が生きている」と感じる節がよくありました。

スポーツも経営も「努力に勝る天才なし」

山本:

私は小中高と様々なスポーツをしてきてすべての部活で主将を任せていただいた経験が仕事にものすごく活きています。

主人ともよく、チームスポーツと経営は似ているという話をしていました。

スポーツで言えば監督、レギュラー選手、控え選手、会社にとっては社長、幹部、社員と皆がそれぞれの役割を果たさなければいい結果は生まれません。

私は中学生時代、後に桜花学園高校バスケットボール部を67回の日本一に導いた名将・井上眞一先生の下でバスケをしていました。小学校の教員になりミニバスチームを立ち上げて監督をしていた時に、井上先生が私のチームの練習に来られたことがあり、子供達にこう声を掛けてくださいました。

「全員が自分の役割と皆の役割を理解して、100%その役割を果たし切ったら絶対に全国優勝が出来る」

 この言葉を聞いた子供達は目の色が変わって、試合に出られない子も「自分にはチームとしての大切な役割があるんだ」

と自覚し一つひとつのプレー、ボール拾いなどを一所懸命に取り組むようになりました。こうした教えのおかげで、監督をしていた5年間に3度の全国優勝に導いてあげることが出来ました。

家庭との両立について

やっぱり大変ですが、会社も子供たちも主人が遺してくれたものをきちんと立派に育てたいという気持ちは変わりません。私がかけてあげられる愛情は食事くらいしかないので、食のことだけは手を抜いてはいけないと思い、毎朝、3食分を作ってから出勤しています。

 

❤山本久美さんの座右の銘 : 努力に勝る天才なし

❤山本代表の記事は こちらから→ も見れます

 

❤この記事の中で私のこころが「いいね!!」ボタンを押した所

 ○お店の瓦版通信の名前が「てばさ記」すごくセンスがいいと思いました。

 ○企業理念「立派な変人たれ」 変人の意味が明るく元気にちょっと変というユーモ アと「変化をする」の変の意味もあるなんて奥が深いと思いましたし楽しい感じがしました。

 ○東京と名古屋にいる社員150人に毎月給料明細を手渡ししていたご主人もすごいけどそれを継いで実践している奥様もすごく偉いし、なかなか出来る事ではないと思いました。

 ○「全員が自分の役割と皆の役割を理解して、100%その役割を果たし切ったら絶対 に全国優勝が出来る」と言って実際にチームを全国優勝に導びかれた井上眞一先生のお話

 

今日も最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

 

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心のチューニングの話に共感した方からメッセージが届きました

 

 

 

 

 

 

心のチューニング

先週の木鶏(もっけい)クラブハウス(2022/1/27)では武田双雲氏のお話をお届けしました

その中で 私が一番好きな箇所としてお伝えした箇所が双雲氏がいつも心懸けている心のチューニングの話しでした。

双雲氏は書には自分がそのまま出る。だからその時繕ってもダメ。日頃から心を整えておく努力、習慣が大切だと話されています。

「すべてに感謝」書道家:武田双雲|木鶏クラブハウスより

そして今日 そのクラブハウスに参加されていた方から 

メッセージが届いたのです。

今度のクラブハウスでは 皆であの「心のチューニング」の話の談義をしませんか・・

先週の話に共感してくれた方がいる。もう少し皆でシェアしたいと思って居る方がいる。と思うだけで心が温かくなりました。クラブハウスの魅力を感じた瞬間でした。

心の共感・声だけのお付き合いでもその方の気持ちが伝わってきます。まさに声は周波数だから・・より共鳴しやすいかもしれない・・

という事で今週(2022/2/3)の木鶏クラブハウスでは 心のチューニングという事について皆さんと楽しくシェアする会にしたいと思います。一緒にお話して下さる方大歓迎です。お待ちしています。

 

❤木鶏(もっけいクラブハウスのご案内

  毎週木曜日 夜8時~(30分)

 

 

 

 

 

 

 

「すべてに感謝」書道家:武田双雲|木鶏クラブハウスより

人間学を学ぶ月刊誌 「致知」(2022年2月号より)

 

今、
時の人、武田双雲氏の魅力に迫ります。

 

連載:20代をどう生きるか

2022年1月27日の木鶏クラブハウスでは 

大河ドラマ「天地人」の題字や

スーパーコンピューター「京」のロゴをはじめとする印象深い作品群、

国内外で展開する様々なパフォーマンスなど、

多彩な活動で注目を集め続ける書道家・武田双雲氏の記事をご紹介しました。

書のプロとして歩み始めた20代を振り返っていただき

そのエネルギッシュな活動を支える心術をいかにして養ってきたかを伺った内容でした。

 

自分の書に涙する女性を見て

 

双雲氏は23歳の時当時勤務していたNTTの女性社員に頼まれて筆をとり

その方のお名前を書いたとところ

「初めて自分の名前を好きになれた」と涙を流されたそうです。

書道ってすごいぞ・・と実感した瞬間でした。

 

双雲氏はその日のうちに会社を辞める決意をし 

「筆文字屋ドットコム」というサイトを立ち上げ、

名刺や表札などを筆書きするサービスを始めたそうです。

 

そしてオファー一つ一つに120%の力で答えているうちに

次第に噂が広まりマスコミの取材や講演・書籍執筆など

依頼が来るようになったとのことです。

 

双雲氏は書道教室を開いていたお母さんの元で

幼い頃から書の基礎を徹底的に仕込まれたました。

 

中高生の頃は勉強が好きではなく

先生とも友達ともそりが合わず

これをやり抜いたと自信を持って言い切れる物が何もない

モヤモヤした青春時代を送っていたそうです。

 

そんな自分の書が人から喜ばれ涙まで流してもらえた。

その感動が氏を書道家の道へ突き動かしたと語られています。

 

来る仕事は拒まない

 

続きはこちら→

 

 

 

 

木鶏クラブハウス

人間学を学ぶ月刊誌「致知」を購読する事13年 私が唯一年間購読している雑誌です。

 

 

 

人生という大海原を乗り越えて行く時 その一つ一つのドラマの中で時として心に灯が欲しくなる時があります。
そんな自分に灯りをくれる珠玉の言葉の宝庫が 「致知」です。

 

 

でもあまり読書が好きではない私は恥ずかしながらこんなに素晴らしい雑誌が毎月送られてくるのになんと「つん読」事の多かった事でしょう。

 

 

そんな中 昨年友人から声をかけていただいてクラブハウスという発信ツールを知り

致知の愛読者による読書会の「木鶏クラブ」と「クラブハウス」が頭の中で掛け合わされて 「木鶏クラブハウス」の発信を思いつきました。

 

そして2021年11月18日木曜日夜8時からスタートしました。

この「木鶏(もっけい)」という言葉は中国の古典「荘子」にある故事から由来しているそうで、ある人が立派な闘鶏を育て 
ものに動じないその様子が木の鶏の様であったということからつけられたそうです。

 

 

このクラブハウスの私の目的は2つあります

 

 

1.まだ「致知」を知らない方達にこの素晴らしい雑誌の存在を知ってもらいたいという事。

 

2.自分自身が毎週ルームをオープンする事によって「つん読」から卒業する事。

 

 

そして嬉しい事にお伝えした方の中から見本誌が見たいという方や見本誌を見て年間購読したいという方が現れています。

 

これからも毎週木曜日夜8時~30分間 Roomをオープンしていますので立ち寄っていただけると嬉しいです。
また取り上げた記事はブログにて配信して行きたいと思っていますのでそちらも楽しみにしていていただけるとさらに嬉しいです

 

 

 

 

フランクル「夜と霧」が教えてくれた人間の光と闇 「木鶏クラブハウス」より

 

 

対談:五木寛之(作家)
永田勝太郎(国際全人医療研究所代表理事)

 

昨日(2022/1/20)の木鶏クラブハウスでは 
第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所から
奇跡の生還を果たしたフランクル先生について語り合われた
お二人の対談をご紹介させていただきました。

極限の収容所体験を綴った名著「夜と霧」は
今なお世界中の人に読まれ続けています。

同書に大きな衝撃を受け、著書や講演を通して幾度となく言及してきた五木寛之氏と
フランクルに師事しその教えを自身の医療活動に活かしてきた永田勝太郎氏が
困難な人生を生き抜く上で大事なヒントについて語り合われた対談です。

永田氏は現在73歳 51歳の時に医大勤務中に薬の副作用で寝たきりになられました。
絶望の中フランクル先生の妻エリーさんに手紙を出されます。
「僕はもうじき先生(フランクル)のもとに行きます。さようなら」

すぐにエリーさんから返事が来ました。
「私は医者ではないから、あなたに何もしてあげることができない。
でも生前、夫が私にいつも言っていた言葉を贈りましょう。

『人間誰しも心の中にアウシュビッツ(苦悩)を持っている。
もしあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望していない。
あなたを待っている誰かや何かがある限り、
あなたは生き延びることが出来るし自己表現出来る」

そして永田先生がその手紙を何度も読み返しているうちに
奇跡が起きました。

病室に次々に弟子にしてほしいという医師や学生が見舞いに来てくれ
「俺の人生まだまだ捨てたものじゃないな ならば生きていこう」と
思えるようになり、それからリハビリに打ち込み快復されたという事です。
永田先生は薬の副作用で病状が悪化したことから
医学教育の刷新を決意し統合医療の道を開かれたそうです。

永田氏は語ります。

フランクル先生は収容所の中で
「夜と霧」のもとになる原稿をずっと書き続けます。
最初に書いた草稿は全部取り上げられて
燃やされてしまいましたから
看守に見つからないように
小さな鉛筆をポケットに忍ばせて
紙くずに速記で書いては
毎晩月明かりにかざして考察を繰り返した。

 

続きはこちら→